朝倉氏が生きた戦乱の世

 戦国時代とは応仁元年(1467)の応仁の乱に始まり、天正元年(1573)に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され室町幕府が倒されるまでの時代を指します。

 その時代は、まさに朝倉氏の一乗谷初代当主孝景が活躍し、その約100年後、最後の当主義景が織田信長に滅ぼされ、自害した時期(1573年)と重なります。

 戦国時代は、越前朝倉氏と共に始まり、終わりを告げたと言えるかもしれません。

朝倉氏・一乗谷の歴史

朝倉氏の越前入国

 朝倉氏の祖先は、但馬国(現在の兵庫県)朝倉庄の豪族でした。

 南北朝時代に、越前の守護となった斯波氏に従って越前に入り、黒丸城(現在の福井市黒松町)に居を構えました。

黒丸城跡から見る九頭竜川 三方を川で囲まれた要害地

応仁の乱の後 越前一国を支配

 応仁の乱で活躍した朝倉孝景と氏景親子は、越前守護斯波氏に替わって、越前一国を支配しました。

 初代孝景は、家訓である「朝倉孝景条々」を制定し、一乗谷に家臣を集めて住まわせ、城下町を造ったことで有名です。

 貞景は、孝景の末子教景(宗滴)と共に加賀の一向一揆を撃退し、朝倉氏の越前支配を確実なものとしました。

 4代当主の孝景は、弱体化した室町幕府を支え、京都から公家や文化人を迎え、一乗谷に雅やかな文化の華を咲かせました。

織田信長に敗れ 越前朝倉氏の終焉

 朝倉氏最後の当主義景は、近江の浅井長政と共に、織田信長と約4年間戦いましたが、天正元年(1573)8月、刀根坂の戦いで大敗しました。最後は一族朝倉景鏡の裏切りにあい、大野で自害しました。

 一乗谷は、押し寄せてきた信長の軍勢によって火を放たれ、瞬く間に巨大な炎の海と化しました。これにより、約100年にわたって華麗な文化の華を咲かせた戦国大名・朝倉氏の城下町は、三日三晩燃え続け、地中深く眠りについたのです。