蓮如上人と明源寺の向拝柱

 向拝とは、社殿や仏堂の正面に張り出した部分で階段前の礼拝をする場所のことを言います。向拝の柱間は一つか三つが普通で、従って柱は二本または四本と言うことになりますが、柱が四本の大きな向拝を持つ御堂を建てるには、その堂に特別な由緒や相当の格式があり、しかも本山よりの許可かなければ建てることが出来なかったと言われています。
 羽坂の明源寺は、泰澄大師の開基と言われ、はじめ天台宗の寺でありましが、
文明三年蓮如上人が都をのがれ、北陸に向かわれる途中この寺にお入りになり、しばらくご滞在になったときに浄土真宗になりました。
 蓮如上人吉崎へ移られる時、その娘の「見玉尼公」をこの寺に残され、その子の「寿如上人」がこの寺を継がれました。
 それから代々の住職が法灯を守り現在まで続いています。
 福井をはじめ、各地に別院が出来るまでは、越前と加賀の本願寺総坊として「高雄御坊」と呼ばれていました。天正年間、織田信長の兵火にかかり伽藍を焼
失しましたが、のちに北の庄城主、堀秀政の命により再建され、このとき、誠仁親王より「高雄御坊」の額を賜っています。
 その後福井藩主松平侯の帰依厚く度々の御来参があり、特に住職には三つ葵の定紋の使用や、駕籠にて御本丸玄関への乗り入れが許されたと言うことです。
 またこの寺の御本尊である阿弥陀如来木像は、蓮如上人が吉崎より関西へお帰りの時、「寿如上人」に贈られたものであると言われています。
 明源寺の御堂が四本柱の向拝を持つ立派な建物であるということは、このような由緒と格式を持つ寺であったからだと思います。
 現在の御堂は、百数十年前に再建されたものですが、良質の材料を使い、寺院
建築の様式に則り高度な技術をもって造られています。
 近隣にない立派な御堂と、格別の由緒を持つこの寺は、数百の門徒の誇りとす
るところともなっています。